九州大学教育研究プログラム・研究拠点形成プロジェクト助成

【研究題目】 店舗文化と人材の定着:中国と香港を事例に

【助成期間】 2014年9月-2015年3月

【概要】
市場のグローバル化に伴い、数多くの企業は新たな市場を求めて海外市場に進出し、自国で培った経験に基づいた人事制度や経営理念を海外に「輸出」してきた。その過程において、海外に進出した日系小売においては、高い転職率が問題として提起され続けてきた。従来の企業研究では、定量的な研究手法を通じて、問題の背景には非論理的な「日本的経営」や「現地における転職文化」があると結論付けている。しかし、このような研究手法は、「現場」で発生している問題を単純化してしまう傾向がある。「外部者」として定量的に企業を研究することは、数値で社員の感情を表すことになり、社員の感情を影響している複雑な要因を見過ごしてしまう可能性がある。また、複数の企業を研究することにより、小売業の核心となる店舗文化の分析が限られ、企業制度の差異を過大評価してしまう可能性がある。

本研究では、人材の定着に影響する複雑な要素及び相互関係を解明する為、グローバルに店舗を展開している日系小売業のIchiに焦点を当て、中国・香港を調査地域とする。中国には多々Ichi店舗が存在するが、その中でも、会社が重点を置いている上海市を調査する。実際に店舗で働くといった参与観察の研究手法を基に、店員の定着に影響する店舗文化を構成する要素として、具体的に企業の経営理念、現地の社会環境、店員個人の利益、店長の役割を分析する。申請者は、博士論文を執筆する際、上記の要素がIchi香港の店員満足度と密接に関連していることを発見した。本研究は、その延長線上にある研究であり、中国上海市、香港におけるIchi店舗の相違点を識別し、分析することで、地域における転職のパターン、人材の定着と店舗文化の関連性を見出していく。

*本研究対象をIchiと仮称する。

【教育・研究の成果】

本研究では、以下に挙げる課題の解明を目的とした。

(ア) 中国上海市のIchi店舗において、店舗文化を影響する要素の識別

(イ) 店舗規範の「標準化」と人材定着率の関係性

(ウ) Ichi香港・中国店舗事例の同質性と異質性及びその根源

現地調査の結果、以下の成果を得ることができた:

(ア) 中国上海市のIchi店舗において、店舗文化を影響する要素の識別

基本的に、香港・中国共に店舗文化を影響する基本的な要素は相似している。例えば、店長が如何に企業理念や方針を解釈しているのかについて、店舗文化の変化が見られ、その要因が従業員に影響している。次に、店長のキャリアパスも要素の一つとなっている。大学新卒者の店長とその他店長の差としては、前者が中国における前例を見ない速度での出店は、能力が伴わない店長代理の昇進を可能としていた為、経験がある後者と比べ、昇進に対するハングリー精神が強く、昇進も容易と考えていることが多い。その為、従業員に対し、強制的な姿勢を取ったり、満足のいかない評価に対しいらだちを隠せなかったりする店長もいるという。

香港と中国において異なる点としては、政治や経済、社会環境の差異による人々の行動の違いがある。Ichiが香港・中国において、同時期にシステムを導入した場合、中国の方が圧倒的に浸透するのが早い。その背景には、欧米の思想に影響された香港人社員と服従的な姿勢に慣れている中国人社員があると考える。例えば、Ichiが重点とする「スマイル」や「元気な掛け声」に関しては、中国において従業員は基本的に従っているが(実際にプラクティスするかどうかは別の問題である)、香港の従業員は、「非合理的」であり、客観的な「経済効果」(売上)への影響が見られないため、その方針を疑問視する。最終的には、店長の説得や会社からのプレッシャーに自らを委ね、従う社員が大多数だが、そのプロセスは、中国と比べると遅いことが分かった。

(イ) 店舗規範の「標準化」と人材定着率の関係性

中国に派遣された香港人店長にインタビューした結果、中国における店舗規範の「標準化」は、香港と比べ、突出して標準化に近いことが分かった。上述の「スマイル」や「元気な掛け声」といった顧客サービスのプラクティスは、従業員からの疑問視の声が比較的少ないことから、その点における標準化は、着実に進んでいることが分かる。その他の標準化としては、物流システムや日本Ichiから直接導入される店舗レイアウトなど、「ハード」面での標準化も進んでいることが分かる。

人材定着率に関しては、店舗においての差異が大きいことが分かった。(ア)でも述べたが、店長は、様々な要因に影響される為、従業員に対する態度が大いに異なることがある。「厳しい」店長やまったく昇進の機会を与えてくれない店長などは、香港同様、リーダーシップが弱いとされ、人材の定着率が低い傾向がある。しかし、香港の事例にもあるように、人望が弱い店長でも、その他のマネージャーの人望が高く、彼らの定着率が高いところでは、現場従業員の定着率も高いことがあげられる。

また、地方と大都市においても異なることが分かっている。例えば、大都市においては、「春節」の時期になると、地方に戻る従業員が多いため、退職率が高くなる、人材不足に陥っていることが分かった。この点に関しては、その他の企業が抱える問題と相似していることが分かる。

上記から、店舗規範の「標準化」と人材定着率には、直接の関連性を見出すことは困難であったが、その他の要因を見出すことができた。

(ウ) Ichi香港・中国店舗事例の同質性と異質性及びその根源

香港と中国を比べた結果、同質性としては、店長による影響が大きいという事があげられる。その背景には、店長への多大な権限委譲があるということがあげられる。その他としては、Ichiを日本の色彩が強い企業であると考えている従業員が多く見られたことがあげられる。

差異としては、政治・経済背景が異なることによって、Ichiの経営方針や理念に対する考えが異なるため、「標準化」導入プロセスに違いがあった。また、市場の大きさが明らかに違うことから、中国では、「春節」の前後に離職者が多いのに対し、香港での離職者は、他業種への転職が大多数であった。

今回は、香港において、中国関係者との接触に成功し、時間的に困難という事もあり、中国での現地調査を実施していない。

【開講実績】

本研究の成果は、九州大学基幹教育院の授業を受講しているIUPE学生を対象としたスタディー・グループ(Japanese Business in Transition)で共有した。受講生は、IUPE1~2年生で、工学部、農学部の学生であった。彼らの多くは、日本企業に興味を持っていたが、同様の授業がカリキュラムでないため、本スタディー・グループに参加していた。普通の講義と異なり、スタディー・グループは、関連の論文を読みながら、討論をしていく。多くの学生は、将来日本企業への就職を考えていることもあり、Ichiの経営と日本企業の慣行、中国・香港での差異などについて様々な議論が行われた。

【全体計画における達成度】

本研究は、全体計画において、非常に重要なデータを得ることができた。Ichi研究は、博士課程から行ってきた研究だが、日々変化するIchiを長期間かけて研究することによって、日本社会の変化、グローバル企業の行方などといったことに着目することが可能となり、日本の文化、企業の文化を理解するうえでは、非常に重要である。

今回の研究は、Ichi「大中華圏」(香港、中国、台湾)の計画において、非常に重要なデータを得た。しかし、研究時間が比較的限られていた為、中国市場に関して言えば、3分の1ぐらいの達成であると考えている。

【次年度以降の実施計画及び目標】

実施計画:

今回の計画では、米国での現地調査が可能となったが、可能であれば、今後も米国での現地調査を敢行できればと思う。米国における現地調査を通じて、中国・香港と相似した観察を行うことができた。その一つが、顧客サービスの実施についてである。通常、米国のアパレルショップでは、店員が顧客に対し、フランクな挨拶をしてくることが多いのだが、Ichi米国では、そのような行為があまり見られなかった。入店してから、異常な雰囲気を感じたことには間違いがない。なぜ彼らは、他のアパレル店員と異なるのか?研究費用・時間が許すのであれば、米国に出かけ、現地を観察することを計画している。

また、同時にアジア市場での現地調査も欠かせない。Ichiはアジアにおいても非常に高い売上高を誇り、今後の海外出店に際し、重要な位置を占めていることに間違いはない。今後も引き続き、香港、中国、そして、台湾での現地調査を予定している。

目標:

経営人類学による日本企業の海外進出エスノグラフィー集の執筆を目標としている。経営学のような、量的に数字を分析するのではなく、現場の声を拾うことで、異なる文化背景の市場は、どのように、現地で企業像を構築しているのかについて研究していきたい。今後も、地道に現地調査を重ね、論文として発表していくことで、学術界・ビジネス界への貢献を試みる。